池田くんのインターンシップ

インターナショナル・インターンシップ・プログラムス
       東京事務所 所長 池田 吉和

◆インターン第1号

インターンシッププログラムは1972年に始まり、インターン第1号は池田君でした。

外国の一般社会が見たかったので、留学より一般社会に密着できる滞在方法はないかと考え、「そうだアメリカの選挙を1年間見ればその国の多くの人達に会い、社会の抱える問題点にも触れる事が出来るのでは!」と実行したのです。

皆さんの中にもこの考えに共感してくれる人もいるのでは? 1979年以来(準備は1978年から)始めた者としては驚きの1万人以上の方々がこのプログラムを利用しているのです。

さあインターン第1号、池田君はどうしたでしょう?

時あたかも1ドル360円が崩れ、308円だったかと思います。言葉も金も不自由な池田君は日本で多少の調査はしたものの文字どおり何処にも行く宛ても無く、アメリカに旅立ちました。何とかなるだろう、何とかしなければとの気持ちに望みを託しての、心許ない一年の始まりでした。大統領選挙の年でしたが、より地域に密着した435の下院議員選挙区から一つを選ぶ事にしました。飛行機に乗るのも初めてなら、車の免許も持っていませんでした。無職の池田君はクレジットカードもありませんでした。首都ワシントンや幾つかの都市に降り立ち、空港から出た途端の苦しさは体験した皆さんならおわかりでしょう。迎えはいません。日本人でこの種の事で助けが出来る人も稀でした。

何にしても1年間の実地体験・・・すべてを自分でやり、自分しか頼る人がいない・・・は自分をタフにするのです。現地の人にも色々いて、どうそれぞれに対処するか、もちろん英語でというのは、語学の習得にも私の経験では速効性があったようです。語学は結局単語力に尽きるかと思いますが、普段の努力も大切です。バスの運行も週末は無く、駅まで毎朝片道50分、犬の多い所を歩けば、車の免許も必死で取らざるを得ませんでした。秋のレイバーデーを過ぎてからは車での行動の自由もあり、選挙の関連で朝食会が毎朝三ヶ所、昼食会が毎日五回、夕食或いはパーティーと称するものが毎晩七回位、約二〜三ヶ月連続しあらゆる階層の人達と意見交換、議論し、少しはその国の事情と国民性がわかったかなと半信半疑で思いました。

変わった日本人がいる、と今はニュースキャスターをやっている筑紫哲也氏も、「本当は自分もこういう事がやりたい」とご馳走までしてくれた事も懐かしい思い出です。他人いわんや外国社会に身を置く事は、いやな事が多い中に、たまに良い事があるという体験です。語学学校での受け身の姿勢の授業は効果が上がらず失望に終わるのも主としてこの苦労が少ないからでしょう。このプログラムと留学を両方経験した人の証言でもあります。

楽しいだけの参加ではなく苦労と不愉快を含め、間違いなく『一生の財産』になりうる人生の一章です。

さて、27歳の池田君は会社に勤めながら、インターンシップの企画・準備を始めました。動機は語学の上達よりも「外国ってどんな所だろう?」という単純なものでした。

留学という方法もありましたが、お金もかかるし、学校の優の数が両手の指の数に達せず良い学校に受け入れてもらえないという実情もありました。また、やりたくない課目を取らざるを得ないことも気が進まない理由の一つでした。

何より”象牙の塔”より、一般社会を自由に見たかったのです。

西洋文化のリーダーたるアメリカ合衆国社会を見たかったのです。32年前、かくて1ドル360円の時代、一般市民が海外に行くのは、なかなか難しいものでした。かくいう池田君もそれまで飛行機に乗った事がなく、いわんや外国に行くなど、とんでもなかったのです。しかし見たかったのです。

振り返って見ると準備期間も面白く、出発までの時間は貴重なものでした。

自分の目的に関する調査を進め、新聞社の元特派員達、当時、日本でアメリカについて最も権威があると言われている人を訪ねたりしたことを懐かしく思い出します。図書館にもよく行きました。「無職では怪しまれるのでは?」と、ある参議院議員のアドバイスにより講談社の社外特派員の肩書きだけもらいました。無論、報酬はゼロ。この間、東京で会った日本人、外国人達には、現地で再会したり、知り合いを紹介されたりと本当にお世話になりました。

自分の交友範囲を出来るだけ広げることの大切さ、面識の有無に関わらず、目的を話し理解を求めれば、結構、人は助けてくれるものであると実感しました。

語学よりも、希望分野での日本の事情、日本の知識の必要性も実感しました。特に西欧社会では自分を主張し、印象付ける為にとても有益ではないでしょうか。

池田君、日本を飛び立つ

1972年2月18日、池田君は日本を飛び立ちました。

しかし、出発の前日になっても家族の理解は得られず、資金も不十分。複雑な心境と不安で一杯の池田君でした。当時は、アメリカ行きの航空券を買うにしても割引が無く、今ならビジネスクラス並の正規料金を払っても団体客と同じエコノミークラスでの旅だったのです。

初めてのアメリカ本土はワシントン州のシアトルでした。アメリカは治安が悪いと聞いており、一人旅でもあり、空港でもどこでも着くなり持ってきた鎖で荷物を柱などに結んだものです。当時のワシントン州は別名ボーイングの街とも云われ、飛行機の受注が州の景気を左右していました。1972年は不況で雇用者の解雇があり、不景気故か、季節故か、陰鬱な雰囲気でした。ビル・ゲイツのマイクロソフト社はまだありませんでした。

幸いシアトルには父の知人のアメリカ人がおり、市内のWashington Atheletic Clubという宿泊施設もあるクラブに泊めてくれました。この時、そのアメリカ人より「年寄り夫婦で、奥さんが病気なので家には泊められないから」と謝られたことには恐縮しました。宿泊したクラブの形態は、会員が互選で運営する会員本位の会でした。ご存知とは思いますが欧米社会は、ある意味それぞれのクラブを中心に動いているといっても過言ではないでしょう。市内には他にもレニエクラブ、その他、一種排他的なクラブが今でもあります。映画等でもそこでの会合の場面がよくでてきます。日本でクラブが普及しないことをふと、不思議に思います。

日本でも新聞を読むことが好きだった池田君は、早速現地の新聞を辞書で引きながら読み始めました。新聞やテレビ等はその社会の動向、一般的な情報を得て、日常生活を知る点で効果的な方法の一つでした。特に外国人が滞在先の情報を得るには活字情報である新聞(現在であればインターネットも)はテレビやラジオよりも便利でした。好奇心から、かなり隅から隅まで読みました。日本の新聞とは異なり、地元の新聞が多いことに興味を持ちました。冠婚葬祭もそれぞれ詳しく、普通市民の動きが小さくとも記事になっていました。これから自分がしなければならない下宿探しの参考にもなりました。ほんの10〜20セント位ですから、こんなに経済的な情報源はありません。そして、人との話題を見つけるにも有益でした。ちょっと細かい話題を出すと相手は「何故まだアメリカに来て数日の日本人がそんなことを知っているのか」と驚いたものです。種を明かせばなんでもないのですが。英語の訓練からも極めて有益かつ、実践的でした。

あなたなら、滞在先での生の情報をどのように手に入れますか?

◆池田債で費用を捻り出す

ここでは、肝心の費用をいかに捻り出したかを中心に米国到着後の話を進めます。

池田君もやはり4年間働いた貯金をパタパタ叩いても、当時のお金で40万円に欠ける位が自分の持ち金すべてでした。他には何の準備もなく自分が払えたのはアメリカまでの航空券がやっとでした。両親はあきらめてはいても協力的でしたが、経済的に完全に寄りかかるのは、少しはあった自分の誇りが許しませんでした。そうは言っても無いものは無いし、失恋はしてるし、希望はあっても悲観的希望で友達と飲んでばかりで、事態の改善は遅々として進むどころか悪化するばかりでした。

そんな時、妙案が浮かびました。池田債を発行したのです。池田君の信用で友人知己一人当たり10万円無利子で、池田君の信用で買って貰ったのです。無論、将来、大いなる利回りで償還される約束債券です。15人位から150万円程集めました。日本政府もその2年前、戦後初めての長期国債を発行していたのです。結局、どっちが信用があったかですが、驚くなかれ、池田君は帰国後、2〜5年で全額償還し、日本政府よりも信用があることが全員から証明されたのでした。利子も形は様々でしたが付けました。

一年余りの滞在総経費は当時の金で300万円を超えたかと思います。大きな出費の一つは必需品としての自動車購入と免許取得も含めて、車に関わる経費でした。中古車を新聞広告で探し、車のことは全く分からないのに買ってしまい、今思えば楽しい経験でした。結局17〜18歳の高校生が処分したかった12年以上前の7000cc GMのポンティアック・ボンネヴィルという車でした。車が大きかった当時のアメリカでも大型(gas guzzler)でした。値段は当時で400ドルでした。

その前に、免許を取るのも一苦労でした。日本でも経験がありませんでしたから、全く何も知らず、その土地に知り合いも無く、電話帳で学校に電話し、コロンビア人のインストラクターにほとんどスペイン語で "セレラ、セレラ" 等と言われながら必死で習いました。車を買ったもののタイヤは全部別のメーカーの様で、恐い思いもしました。エンジンが割れていて、ものの5分も走ると座席の下からオイルが焼けて、いつも紫色の煙が出てきました。運転席の窓は閉まらず、雨の時は不自由しました。皆さんも経験があるでしょうが、初めての車は特別でした。皆さんも日本で免許が無ければ、取りやすい外国で取ることを勧めます。事故の保障は出来ませんが。

皆さんの中には池田君は、どのように住居を見知らぬ土地で見つけたのか疑問に思う人もいるでしょうから、少し書きます。新聞の広告欄を利用しました。

新しく出来た知り合いに頼むことも出来ましたが、情報量が限られているので結局は地元紙に頼ることになりました。日本は未だに戦争中の影響での新聞統合でローカル紙は一県に一つか、関東・関西等はほとんどありませんが、外国は地元のニュース中心で、小さな小さな父ちゃん母ちゃん的な日刊でも一万部も発行していない新聞社が堂々と長年、営業しています。その中の一つを利用したのです。電話で良さそうな所を片っ端からかけまくり、それも面白い体験でした。まだ車が無いので、それぞれ現地まで見に行くのは容易ではありませんでしたが、その後の行動のための土地勘、社会勉強にも大いに役立ちました。

真剣勝負の言葉のやりとりも、嫌でも少しは上手くなりました。

池田君の考えでは、語学を習う人は、いつまでも上手くなりません。上手くなるには、習わないで慣れることでしょう。

そして嫌な思いをどの位したのかでは? 外国からの移民の多い土地柄(マンハッタンから45分位)では全く特別扱いはありません。かえって警戒されるのが常でしょう。東京以上に、ある意味では外国人というか、弱者には厳しい国では?

◆静かな住宅街にある家の二階に下宿

部屋をシェアしようと何軒も周ってみましたが、大学街ではないせいか、質的にも量的にも余りよい物件はありませんでした。とにかく車が必要不可欠な社会での生活は想像以上に大変で、途方にくれ、見知らぬ人の世話になった事も度々でした。家探しで幾つもの場所に行き結局、車を買うことを頭において、ホワイトプレーンズという市の静かな住宅街にある家の二階に下宿することになりました。

大家は別居中のユダヤのラビの奥さんで、マンハッタンヴィル大学の事務で働いていました。家賃は、良い地域なので高かった記憶があります。ニューヨークのユダヤ人の多く住むスカースデールも車で5分、ニューヨーク市へ通勤する人達の住むアメリカでも豊かな地域でした。

ご存知の通り、欧米では何処に住んでいるかで大体収入がわかり社会的地位が結果として分かる様になっています。商業、工業、住宅街はゾーニングで明確に区分され、高級地はそれだけ税金が高く自動的にそこに住む人を決めてしまいます。中世までの日本は住む地域が階級別にある程度になっていたかもしれませんが、今は他のアジア諸国同様、お好み焼き状態です。

さて住居は決まったものの、自炊のための台所も冷蔵庫も使用できない契約で、外食一本ということになりました。ただ、「窮すれば通ず」で、何とかなるものです。部屋に小さな電熱器を買い、簡単な自炊はできました。無論、大家さんに許可を取ってのことです。

テレビも無く、新しく買う金も無く、何がおきているかを知る手段として安いラジオを買い、新聞(NYタイムス)も大家とは別に購読することにしました。

外国に行った場合、よく観光などで周辺を歩いたり、有名な観光地を訪ねたりするのもよいのですが、その国、その町、人々を知るにはその国の大半の人がしていることを、そのまますることでしょう。ニューヨークといってもマンハッタンから30〜40分の所ですが、ある程度の人達は必ずと言ってよいほど、NYタイムスを読んでいましたし、読まずには人と話が合いません。

滞在中、最も重要なこととして新聞を辞書で引いたり、人に聞きながら解らない点を聞きました。面白かったのは仕事探しの広告欄にgirl, boy friday募集とあって、いくら辞書を引いてもわからないので人に聞いたら小説のロビンソンクルーソーに出てくる何でもやる地元の少年から転じて、便利にちょっとしたことをこなす職場の便利屋だとわかりました。

◆インターンシップ成功の秘訣

31年前、ホワイトプレインズという米国独立戦争史にも出てくる町の近く、ニューヨークのアップステイトと呼ばれる小さな町。。。

池田君は偶然「総選挙の年」に、チャパカに一年ほど住むことになりました。

米国という外国社会を観察し、そこの普通の人々が住むコミュニティに暮らしてみたかったからです。大げさに言えば、民主主義の根本である選挙、それも小さな選挙を通しての社会勉強がしたかったからです。選挙は各候補者と選挙民の間の社会が抱えるあらゆる問題をさらけ出して争うわけです。当時は、「この選挙は池田君の勉強の為にあるんだ。」くらい図々しく考えていました。

一応、日本で「講談社の社外特派員」の肩書きだけもらい、取材の名目でニューヨーク郊外のウェストチェスター群に飛び込んだ池田君でした。

今でこそ、チャパカも含め、日本人が数多く住む地域ですが、当時は住める人はごく僅かでした。チャパカにはノーベル賞の江崎博士が住んでいました。寿司も未だブームとは言えなかったようです。この31年間でこれだけ日本、米国共に変化したのですから、今後の日本もどうなるのか?

この池田君のインターンシップ体験から(当時は自分がインターンシップをしているとは思ってもみなかったのですが)、インターンシップ成功のヒントについて書いてみます。

まずは「現地で驚くこと」です。ただでさえ自分の国が一番だと信じている人達に、見るのも聞くのも凄い凄いと言うと、本当に喜んでしまい、エンパイアステイトビルの上まで、すぐ舞い上がってしまいます。当時のアメリカはベトナムでの敗戦から自信喪失気味でした。このような態度は、今も外国に行った際には良い方法でしょう。決してお世辞ではなく、やはり違うのですから認めてあげることです。我々、日本人と違う特徴は、大きな声でよく喋ることです。

政治家の悪口は大好きです。池田君が知る限り、政治家が信頼できると聞いたのは北欧だけでした。余談ですが、皆さんもマクドナルドに行っても日本にあると言わず、ちょっとした違いにも大げさに誉めてあげることです。

それがインターンシップ成功の秘訣では?

当時28才の池田君も限られた滞在の中で、あれもこれもと欲張っていました。

期待が裏切られることの連続で、気落ちする毎日でした。選挙運動に飛び込み、普通のアメリカ人も出来ない体験(毎週違う宗派のキリスト教会に行ったり、駅の傍らで通行人へのインタビュー等々)をしても満足しなかった。インターンもそうだと思いますが、やはり「めでたさも中くらいなりおらが春」の句から大いに学ぶべきでは?1年間のインターンシップでもそれなりの成果はあがります。満足するのも大切では?

池田君ももちろんそうでしたが、外国での滞在は、ほとんどがうまく行かないことの連続です。日本では当然の事柄が、ほとんど自分でやらなければ動かないわけですから。用意されたカリキュラムに乗る形の留学と違い、特にインターンシップの様な本人の自主的判断、裁量の部分が大きい外国滞在は、無軌道電車の様に自らが制御しないと思わぬ方向に行ってしまいます。別の角度から言えば、それだけ自由ということです。外国社会に住むのは自分の総合力が、より試されると言っても過言ではないのでは?日本にいる時は、過去のしがらみがあっても、外国では自分の容貌、話し方、知識、教養、人柄で結果がとても違ってくる感じでした。

裸の自分が、そのまま周囲に映るのでしょう。

◆インターンシップ成功の秘訣(その2

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人生の何パーセントかの時間を日本以外のどこかで住む体験は、一生の財産です。
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池田君の様に、一年という長い間、ある外国社会を垣間見て観察した人は少ないと思います。社会が教室でしたから。池田君にもっと教養があれば文化人類学的にも業績になったかも知れません。

朝、取りたての免許で400ドルの車を運転し、選挙事務所、その他に行き、全て自分の判断で計画し、行動しました。このように自分で全て判断行動することは、誰も強制する人も方向付けする人もいないのですから、確かに苦痛もありました。反面、車のトランクには、いつもバーベキューセットを入れ、昼に設備のある公園で楽しんだのも思い出でしょうか。知らない人達と打ち解けるコツも覚えました。池田君も「外人」として意見をよく求められ、日本はどうかとよく聞かれました。ニューハンプシャー州に行ったときは人にジロジロ見られ、「あぁ、日本に来た外国人もこういう気持ちになるのか」と不思議な感覚でした。

しばらく話してみると何ということも無いのですが、最初のうちは外見が物をいうようです。その後は人柄でしょう。インターンも異国の社会に飛び込むのですから、人の眼は意識してください。でも直ぐにあなた自身の魅力と人柄が、その後を決めるはずです。語学ではありません。当事務所の調査でも、語学力と参加中のホストによる評価は、それほど比例していない結果が出ています。

一年の滞在中、幾つか仕事の話もありました。今、振り返ってみると自分が選択した以外の道を選んでいたら、自分がどうなっていたか。人は人生の方角をどう定めるのかを考えると複雑な心境になります。人生のチャンスは必ず巡ってきますから、その時、どのような取捨選択をするかにかかっています。就職も国境を越えることが、もっと多くなるでしょう。インターンシップはその手段になるのでは?

また皆さん関心のある語学力ですが、あまり語学力取得中心に考えない人の方が、皮肉にも言葉が上達し、実地の仕事、その他、生活面でかえってうまくいっている感じがします。TOEFLの国際的な点数比較で、日本は政府のJETプログラム等にも拘らず、底にペタリと貼りついた平均点とのこと。落ちたとはいえ、これだけ世界の経済他評価の高い日本ですから、ここで国民的悲劇と呼ばれる英語力取得のための涙ぐましい努力を止めては?多分余り変わらないのでは?必要に応じて実地体験を強化した形に変えては?

25年間の参加者に見られる特徴は、多少の個人差はありますが、通じる言葉を使用できるようになるという明確な成果です。英会話という言い方は、あまり賛成ではなく、もっと言語は総合的であり、読み書きも同時に重要であると考えます。インターンシップの参加者が概して実践的というのは、意志を理解させる立場に自らを追い込むからでは?前にも述べましたが、乱暴に言えば、単語さえあれば話は通じます。よくヒアリングが重要といいますが、文章、会話の中の単語の幾つかがわからなければ脳はそこで止まってしまいます。日本に居る外国人は、こんなに日本語に時間、金、エネルギーを使ってはいません。もっと切実に、切羽詰って仕方なくやっているのが実状では?

皆さんが、これからどんな成功者になれたとしても、

人生の何パーセントかの時間を日本以外のどこかで住む体験は、一生の財産です。


その後の人生において、常に価値基準を比較し、子供を育てても、女性の生き方でも、客観的な物の見方が出来るようになるのでは?

外国に行って日本が初めてわかった」とは奈良時代の遣唐使の人も言ったとか。

インターンシップは、本では学べない人生を考えさせてくれます。

自分自身の体験でも、自信を持って言えます。

この記事へのコメント
池田所長

昔、IIP職員としてお世話になっておりました中本です。懐かしくてメールいたしました。

現在、(一橋大学の後)埼玉大学国際交流センターで学生教育・交流部門長(教授)をしております。

池田所長や、阿部さん、野口君、そして塩見さんのお陰です。

学生の送り出しプログラムも考えておりますので、またいつかお会いできる日を楽しみにしております。

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
Posted by 中本進一 at 2008年08月07日 14:25

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